私たち夫婦の仲人は中学校時代の陸上部の顧問、故柄澤省先生ご夫妻である。先般、奥様のところへご挨拶かたがた伺い、ご仏前をお参りしてきた。
当時の1中陸上部は柄澤先生の元、全国2位の記録を持つ内山卓己を始め何人かの全国レベルがいた。また、柏崎刈羽地域は陸上王国であった。陸上以外も部活動が盛んで、顧問の先生も非常に熱心でいらっしゃった。失礼ながら、授業よりも部活動の指導の方が一所懸命、という先生も珍しくなかった。駒大苫小牧の体罰が問題となっているが、一般的に私自身の感覚では「愛のムチ」容認派である。もちろんボコボコは論外である。柄澤先生からもげんこつを何度も頂いた。
昨日のテレビで、茶髪ヤマンバ都会の女子高校生が、「何でこっちがお金払ってて、殴られなきゃダメなわけ?おかしいよ、アンタ」などとコメントしていた。お前だ、おかしいのは!ヤマンバは愛の無知である。
柄澤先生のような真の意味での先生がもっと沢山いて、本音であたり、本音で行動する先生がもっと現れて欲しい。本当のものは何かを知り、子どもたちに体験させられる教師がもっと現れて欲しい。恥ずかしながら以下は昨年読ませていただいた柄澤先生への弔辞である。
弔辞
暑い夏です。
先生、柄澤先生、暑い夏です。
先生に教えていただいた誰もが、先生らしい季節だと思うはずです。夏の競技場、先生の仕事場でした。
万年筆があります。先生から二十七年前に頂いた万年筆です。私が中学三年生、何の記録も残せず、できの悪い生徒だった私をマネージャーにさせ、そして、そのマネージャー稼業が終わった、卒業の春、先生は「桜井くん、ありがとう、君のおかげだ」と言葉を掛けながらこの万年筆をくださったのです。大切な場面、全てこの万年筆を使ってきました。大学の願書、就職の時、そして、結婚の際も。
私が今あるのは先生から、あの熱い競技場で教えていただいたからです。夏休み、毎日走らされ、鍛えられたおかげです。先生の多くの教え子たちが今そう思っているはずです。
先生は、出来の悪い生徒を鍛える名人でした。成績、生活態度。昨日の通夜にも四十過ぎても髪の毛を金色に染めている男が来ました。私の同級生であり、親友です。彼も、先生に救われた一人です。彼は今、本当に物事をよく考える、そして人の苦しさを想像できる立派な男です。
あの当時の競技場には、沢山の選手がいて、沢山の先生がいらっしゃいました。私の同世代で言えば、今、柏崎陸協会長の渡辺亘先生は五中の先生でした。三中には後藤先生、東には坂井先生、柏高には山崎先生、工業には名塚先生、常盤には根立先生、そして一中に柄澤先生です。
川尻さん、石上さん、田川さん、村山、石黒、内山卓己。みんな全国トップレベルでした。
先生は、陸上競技の中で、栄えある賞、平沼記念賞を受賞されました。優秀な指導者であることを日本陸協から認められたのです。先生は優秀な選手を育てた、同時に出来の悪い生徒も立ち直らせた名人だったのです。
先生のまわりにはずうっとたくさんの生徒がいました。お盆、正月、伺うと必ずたくさんの卒業生がいました。先生は、頑固でした。中学を卒業後もお宅に伺うたびに、柄澤家では喧嘩がありました。優子さん、直子さん、均君。それぞれが大きな声で、先生と喧嘩をしているのです。均君との間では、良く手が出ていました。最初の頃はビックリしていましたが、これが柄澤家なんだ、と次第に驚かなくなっていきました。皆さんに、信頼があり、愛情があるのです。先生同様、優子さん、直子さん、均君みんな、周りにはたくさんのお友達がおられます。
先生、暑い夏です。一番先生らしい季節です。何でもかんでも自分で決める先生は、いくら勧めても、検査も、入院も最後まで嫌がっていた先生は、ご自分の最後の時期まで、ご自分で決めてしまわれました。
今日も暑い日です。今朝、陸上競技場の写真を撮ってきました。一緒に入れておきます。
先生、先生らしい最後でした。今日も競技場では沢山の生徒が走っています。
先生、競技場を見ながらゆっくりお休み下さい。さようなら。ありがとうございました。ありがとうございました。
2004(平成十六)年八月九日
教え子代表 桜井雅浩
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